小鹿田焼窯元/同人誌「屁糞蔓」 代表 坂本茂木

地域で紹介したい自然・歴史・文化・工業・産業など
・小鹿田焼窯元、小野川源流の風土と自然
紹介・解説できる人・団体(ボランティア学芸員)
・同人約10名
利用・交流できる施設
・交流拠点/「小鹿田焼資料館」・「山のそば茶屋(食堂)」
お問い合わせ先
日田市源栄町皿山 TEL.0973-29-2404

 日田盆地の中心部から北へ十六キロ、江戸時代中期に、筑前の小石原窯から分かれて来たという小鹿田焼の皿山がある。私はここで、はからずも窯元を継ぐこととなって三十年、ほそぼそと焼物を造る仕事にいそしんでいる。
 小さい鹿の田と書いて、不思議にもおんたと呼ぶが、実は小鹿田という集落は、峠を越えて二キロ離れた福岡県との県境にある。そして、皿山という呼び名は、九州の南部地方を除いた、大方の陶器を造る窯場の地名なのである。例えば有田の皿山、上野の皿山、西陣の皿山、小石原の皿山などある。小鹿田焼きがここに開窯した当時、ここは小鹿田集落の領分であった。だから小鹿田の皿山である。近年民芸ブームの起きる前は、皿山皿山、皿山焼きで通用した。それが小鹿田小鹿田、小鹿田焼きと呼ばれるように変わった。私たちも、小鹿田と皿山の使い分けに無神経となったが、小鹿田というもとの集落は、気の毒なほど静かに、山の向こう側にあるのを忘れられている。
 小鹿田焼きは朝鮮伝来の技法を受け継ぐ窯場だが、陶土を砕く唐臼も朝鮮伝来のもので、今はここ小鹿田窯独特の風物詩となっている。決して見せ物ではないのだ。そしてこの唐臼こそが民窯小鹿田焼きの要なのである。工人が働くことを怠ればこの唐臼が急き立てるし、唐臼をおろそかにすれば機械がはいって来る。また唐臼が創り出す陶土量が、家族で働く手仕事にバランスして、この体型を崩さなかった故に、小鹿田窯の伝統は守られて来たのだといっていい。
 もう少し唐臼のことを述べさせてもらおう。川の水を充分に利用したシーソー方式の粉砕機が唐臼で陶土を砕く作業をしている。この窯場にそれが四十丁ほどもあって、「ギギィーッ、ゴットン」と昼夜を問わず鈍牛のリズムをかなでている。このリズムが小鹿田のすべてを物語っているといっていい。山から掘り出した原土をうたせること二週間、その粉末を水こし自然乾燥して、轆轤に乗せられるまで約一カ月。このスロースピードが、轆轤を精一杯まわす工人の仕事に見合っていて、それ以上の量産は出来ないのである。伝統を守る、多量生産をしないといえば、いかにもしっかりした人のことばだが、実は、自然の掟に私たちの方が守られているのである。私たちは、自然や諸々の恩恵を被って仕事をしているにすぎない。民芸陶器に作者名を入れないのは、この精神であることを分かって頂きたい。



 ◎ リーチさんとの出会い

 バーナード・リーチさんはこの唐臼が大変気に入って、いつも見つめている姿が多く、沢山の写生もされていた。それは昭和二十九年の四月で私が十七歳、中学校を出たままの気のすすまぬ焼物の修業に努めている時であった。そこへリーチさんの来訪は、私にとって大きな変革をもたらしたのである。
 当時はまだ小鹿田窯への道路も狭く、村外の人の出入りもめったにない寒村であった。それがリーチさん来山の日は、報道関係などの車もあって、初めて乗用車タクシーなどがのりいれられた日であった。そして一躍小鹿田窯の名が世に出た。さらに幸いは連鎖して、日本経済の成長、民芸運動の盛挙もあって、全国的民芸ブームが到来するのである。

 ◎ 名文 ‘日田行’

 「小鹿田焼きが有名になったのは、バーナード・リーチさんが来てからですね」とよく聞かれる。それはそのとおりなのだが、柳宗悦先生が小鹿田の皿山を訪ねて来られたのは、昭和二年のことであった。
 柳先生は「小鹿田窯への懸念」という稿を雑誌‘民芸’に残して二十年前の五月に亡くなられた。この窯の毒される幾つかの条件を指摘し、そして正しい理解者の協力を呼びかけられて。
 小鹿田窯の共同体が、量産に走らなかったのは賢明であった。しかし質についてはどうであろうか。民窯の仕事がいかに他力道とはいえ、工人としてのプライド、柳先生のいう一物とは何かを忘れてはならないと思うのである。ただ祖先の積み重ねてこられた遺産を食いつぶすのみでは、あまりにも虚しいものではないか。

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