クリーク地帯の風土と水利用技術 蔦川正義

地域で紹介したい自然・歴史・文化・工業・産業など
・クリーク地帯の風土と水利用技術
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・連携倶楽部事務局及び流域の各自治体、観光協会にお問い合わせください。
お問い合わせ先
・筑後川流域連携倶楽部事務局 TEL.0942-33-2121 FAX.0942-33-2125

<下流クリーク地帯の風土と、アオ取水等の多様な水利技術>

筑後、佐賀両平野は、アオ取水と無数のクリークに支えられた山と海からの‘水と土’を共に受け入れる世界であり、文字通り“人と水との共生”によって形成された世界であった。又、江戸期の千栗、安武堤防や多くのアオ取水門とモタセを組み込んだ水路、明治期のデレーケ導流堤等の、自然素材を利用した高度な水利技術が各所に残っている。

筑後川下流部用水の特徴
 筑後川の河口は、米倉二郎教授の研究によれば、100年に2kmの割で前進している。筑後川下流平野は、そのような沖へ沖へと拡がってゆく干拓地である。洪水ごとに平野は広がり、川は年々歳々海を南に押しやっていった。
 筑後川下流平野は年々干陸化してゆく広大な沖積平野である。
 この平野の水源としては、筑後川とその枝川である域内中小河川がある。独立河川としての矢部川、嘉瀬川、大牟田川、白銀川、隈川がある。
 筑後川下流平野における3つの水源、筑後川とその支川及び独立河川としての矢部川とを巧みにかみ合せながら、これを極めて高度な反覆的水利用の技術的な体系と、村落相互の用排水慣行という用水秩序を形成したのが下流平野に展開するクリークである。
 このクリーク形成には、有明海の逆潮利用が極めて大きな意味を持った。
 沖積平野は、沖へ沖へと延びて行く。川はその能力以上に水を供給せねばならない。とすれば自然の水路と人工的な水路とを組み合わせ、川の恩恵を平野全体に広げる必要があった。流水をおもむろに流しながら、これを繰り返し利用していくのである。平野の水不足地帯に水を持ち込み、これを努めて、さっと流してしまわないための容器が必要であった。クリークは導水路であると同時に溜池である。そこで幹線水路は流れ堀と呼ばれる。もし水源が十分であり、コンスタントな水の供給が可能であるならば、クリークは流れ堀とその補助の枝川だけで足りるはずである。水源から遠くなるほど、クリークの密度も大きさも増大する。あるいは、筑後川の支川であり且つ、筑後川の排水路となる江湖沿いのクリークは、江湖が有明海の影響を受けて干潮時しか排水できないために、悪水を貯留する意味からも大きくなる。そしてそれは同時に、満潮時江湖から有明海の逆潮(アオという)を引き入れる上でも、その貯留能力を大きくするという意味がある。
 クリークは、上流では中小河川の水を引き入れ、下流では筑後川のアオを引き入れる。
 筑後川からのアオ取入が可能になったことで、ようやくこの地方は、用水不足から逃れることができた。
 水の条件は、アオ利用地域が最も安定し、その他の地域は全く不安定である。
 

アオ取水門

クリーク地帯の風景

クリークの木製水門

くもで網

下流域に残る様々な伝統的水利技術
 千栗堤防は、筑後川下流の右岸にある堤防で、今から約360年前の江戸時代に、12年の歳月をかけてつくりました。鍋島藩(佐賀県)の成富兵庫茂安が考えたもので、堤防を二重につくり、その間を洪水を集めるクッションにして、2番目の堤防を守るように工夫されています。高さは約7.2m、長さは千栗神社から坂口までの12kmで、堤防と堤防の間は広いところで180mもあります。当時、使われた土の量は、トラック16万台分ともいわれ、この堤防の完成によって、佐賀平野を洪水から守りました。(写真右上)
 千栗堤防がつくられたころ、有馬藩(久留米市)においても、筑後川左岸の三瀦郡安武村(現在の久留米市安武町)付近に堤防がつくられました。堤防は約4kmで、その後、寛保元年(1741年)に1.4kmが加わりました。(写真右中)

 江戸時代は舟の運搬が多かった水深維持を兼ねた荒篭が各所につくられました。
 筑後川の上流から運ばれた土砂は、有明海特有の大きな干満差によって河口近くに堆積しがちです。これがガタ土で、ともすれば航路をふさいでしまうこともありました。明治20年につくられた約6kmもの「導流堤」は、河口の航路確保のために、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケが設計したものですが、現在も流れ込む土砂をコントロールして活躍しています。
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