徐福、エツ伝説と東アジアとの交流 大矢野 栄次

地域で紹介したい自然・歴史・文化・工業・産業など
・徐福、エツ伝説と東アジアとの交
紹介・解説できる人・団体(ボランティア学芸員)
・アドバイザー学芸員/大矢野 栄次
利用・交流できる施設
・連携倶楽部事務局及び流域の各自治体、観光協会にお問い合わせください。
お問い合わせ先
・筑後川流域連携倶楽部事務局 TEL.0942-33-2121 FAX.0942-33-2125

<徐福、エツ等の伝説と、流域と東アジアとの交流史>

 下流域には徐福と御手洗井戸や片葉のヨシ伝説、弘法大師とエツ等数多くの伝承、伝説が残っていて、流域に点在する遺跡、古墳群や地名、人名等を併せて、中国、朝鮮半島との交流の歴史に支えられた地域の風土、文化を物語っている。


筑後川下流域の古代文化
 吉野ヶ里遺跡では、割れたアカニシ貝が検出された。アカニシ貝のパープル腺を抽出して有明海周辺でも貝紫を染めていたのではないかと、染色研究者は指摘している。弥生時代の前期前半(紀元前3世紀)から後期終末期(3世紀)まで継続した吉野ヶ里環濠集落の支配階級は、筑後川水系と有明海とを身近にもつことで、朝鮮海峡を渡る大陸文化はもちろん、黒潮に乗った南方の文化も受容することができたのである。
 ヤマト王権が筑後川上流域の造船技術と河口周辺の航海技術に注目し、それに強力な支配力をおよぼしてきたのは奈良時代よりも古く、筑紫平野に畿内的な前方後円墳が成立した4世紀中頃、または5世紀代のことだと考えられる。
 水沼君は筑紫国三潴郡を本拠地とし、久留米市大善寺町の5世紀後半の御塚古墳(帆立貝式前方後円墳)、それに6世紀前半の権現塚古墳(円墳)は、一族の古墳だと考えられており、また、水沼君が県主となり、宗像氏が祀る沖ノ島などの航海三女神(道主貴)を祭っていたとすれば、有明海側の航海権を掌握して5世紀代に朝廷の直轄領となっていたことはまず間違いない。
 淀姫神社に近い対岸の嘉瀬川左岸で、奈良時代の肥前国庁跡が発掘調査されている。ところが当時の嘉瀬川は「佐嘉川」といわれ、今の市ノ江水道から巨勢川・佐賀江川を抜けて筑後川のあたりで海に注いでいたという。河口にあたる佐賀郡諸富町徳富の大津(嘉瀬津)は、国府にとって重要な外港であった。諸富町では「国庁」「宮殿」などと書いた8世紀代の土器が出土しているが、いずれ肥前国庁の施設遺構も検出されるのではないかと期待している。
(第一経済大 田中正日子「かわりゆく筑後川,下流域と人々」より)

徐 福 伝 説
大盃を流して確かめた上陸地
 有明海にたどり着いた徐福一行は、大きな盃を浮かべて流れ着いたところから上陸することにしました。
 大盃は流れ流れて、現在の筑後川河口の諸富町寺井津にたどりつきます。盃が流れ着いた土地を、人々は「浮盃」と呼ぶようになりました。
 上陸した徐福一行が、生い茂る葦の葉を手で払ったため、葉の片方が水面に落ちて「片葉の葦」となりました。上陸した後、水を使うために井戸を掘り、その井戸で手を洗ったのが「御手洗いの井戸」で、なまって寺井の地名になります。
 徐福一行は一時、寺井津一帯に滞在していましたが、漁網に塗られた柿渋の匂いに耐えきれず、蓬莱山に似ている北方の金立山に向かって旅立って行きます。
発見、永遠の命を与える霊薬
 徐福は玄蔵の案内で、不老不死の霊薬を求めて金立山中を歩きますが、容易には発見は出来ませんでした。
 ある日、山頂の裏側で白髪の仙人が釜の中で何かゆでているのに出会います。徐福はこの仙人に不老不死の薬を求めていることを告げると、仙人は「その薬はこれである」と薬草を渡したあと、白い湯気とともに消えてしまいます。徐福はついに永遠の命を手に入れる薬を発見したのです。
 徐福が求めた不老不死の霊薬は、フロフキと言われ、二千年もの長い年月を経た今日も、金立山の山奥に自生しています。
片葉の葦
 上陸した徐福一行は、道らしい道がない生い茂る葦を払いながら進みます。片側だけを払ったので、以来この辺の葦は片葉の葦になります。
 現在も片葉の葦は、徐福一行の上陸地から上流に向かった川岸一帯に生えています。
不老不死の霊草「フロフキ」
今も生える「フロフキ」は根、または全草を陰干しにして煎じて飲めば、腹痛、頭痛、のぼせに効くといわれています。「フロフキ」は不老不死のなまりともいわれ、徐福が求めたのはこの薬草であったと言われています。
徐福伝説を裏付ける「ビャクシン」神木
 新北神社の「ビャクシン」にはこんな言い伝えも残っています。
 徐福は長い旅を終え、故国の海によく似た有明海で停泊します。異国の空は星が美しく、特に北極星が徐福に強い印象を与えます。上陸後、北に強く惹かれるものがあり、北の地に百穀と共に持ってきた「ビャクシン」の種を上陸の証として植えたいと思うようになりました。そして北の聖なる地に「ビャクシン」の種を植えた徐福は、この国を第二の故郷として骨を埋めたいとまで思うようになったのです。「ビャクシン」は、勢いよく芽をふき、大きく天に向かって栄えました。
 「ビャクシン」は、白壇に類似し、一説では赤栴檀の一種。樹齢は二千二百年と推定される古木は全国でも珍しく、国内で自生するものはほとんどないといわれています。徐福伝説と不思議に重なり合う古木なのです。
 はるか昔、大陸とわがまち諸富を絡めて繰り広げられた壮大なドラマの主人公、「徐福」。その足どりをたどると、伝説を裏付けるたくさんの事実が覗きます。時空を越えたロマン、徐福伝説はこれからも人々を魅了し続けるに違いありません。
                         (諸富町資料)
トップページ流域の活動と風土上流域中流域下流域